ものつくりの生活と仕事から 大島 寛太の日記
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引っ越しました!
当ブログにご訪問くださり、ありがとうございます!

いままでジュゲムでブログを続けてきましたが、最近どうも調子が悪い。
新規投稿の画面で接続がリセットされて、書いていた記事の内容が飛んでしまうことがあり、それが我慢出来ないほどたびたび起こるようになってきました。

ジュゲムのヘルプページから問い合わせたところ、そういう事例は聞かないそうで、PCの個別的な問題なのか、回線に問題があるのか今のところわかりません。

とにかくFC2ブログに引っ越し、ブログタイトルを“shore”と改めました。

これからもどうぞよろしくお願いいたします!

Shore http://shoreshore.blog.fc2.com/

2012 08 05
大島 寛太


p.s.
当ブログにリンクを張って下さっていた方へ
お手数ですがリンク先URLをhttp://shoreshore.blog.fc2.com/に変更していただけると嬉しいです助かります!











先日、久しぶりにニワカヤマこと染屋澤口さんを訪ねる。

これは藍染職人の手。

鳥の翼の先と、おんなじかたちをしている、手。












杉 ノ 額
 


龍神村を拠点に活動なさっている詩人せいさんからの注文で杉の額を20枚おつくりしました。土地のものを使いたいというリクエストで龍神村の山の杉を贅沢に木取りします。










wax仕上げと黒化粧の2種。
waxは龍神村の林業家の友人・大江君が山で飼っている日本蜜蜂の巣から蜜を絞った後に残る蜜蝋に、胡桃油などを調合した龍神蜜蝋wax。非売品の大江オリジナル。鉋仕上げの白木の肌にこれをたっぷりと塗り込み、しっかりと拭き取る。途端に上品な柔らかい光沢と艶があらわれてきます。










黒化粧の方は、砥の粉に松煙墨を混ぜたものを拭き込み、オイルにて仕上げています。砥の粉で下地をつくることにより、すこしマットな表情が生まれます。つけたことありませんが、ファンデーションってこんな感じでしょうか。拭き取りの加減が難しい。









ところで昨年の水害で土砂崩れになったウチの近くの沢筋には、たくさんの杉の苗がでてきています。土砂と一緒に流れてきたのか、それとも初めからそこにあったのか、洗い流されて砂利だらけになった荒れ地に、無造作に惜しげなくばら撒かれた緑の火花のように。















 すこーし仕事が一段落ついたので、先日はビールを下げて、大好きなせいやんとそんちゃんのところへ遊びに行ってきました。






70数年間生きてきた手。この手が、過不足なくせいやんの生きてきた時間を物語っていると思う。






看護婦もしていたそんちゃんの手。












 

銀木犀に追加納品する椅子12脚に、今日やっと2回目のオイルをかけ終わったところです。

材はホワイトアッシュ。はじめにつくった試作は、試験を兼ねて家で使いはじめて1年余り経ちますが、すこしずつオイルが焼けて色が濃くなってきています。

オイル塗装では、1回目はとにかくたっぷり、木材のなかに深く染み込んでゆく様に刷毛で塗り、少し間を置いてから拭き取ります。2回目からはほとんどオイルを吸い込まなくなり、ごく薄く塗膜を重ねる感じで塗りひろげ、手早く拭きあげます。拭き漆の場合も同じですが、なんといっても1回目に、執拗に深く吸わせるようにしています。本当ならオイル風呂にとっぷりと漬け込みたいくらい。

塗装は材種や用途によって、結構いろいろなものを使い分けますし、同時に実験も兼ねています。現在主に使っているのはエコ・オーガニックハウスさんで扱っているブレーマー社の木材用オイルで、ドイツ製。アウロ、リボス、オスモなど自然塗料のメーカーは沢山あって、上記のなかアウロ社以外のものは使った事があります。ブレーマー社のオイルは、多分主に皮だと思うんですが、柑橘系の果実から採った油、いわゆるオレンジオイルの類の比率が多いみたいで、独特の香りがします。苦手な方もいるようです(身近にもひとり。トオルさん)が、僕は好きな匂い。この匂いは時間の経過につれ徐々に消えてしまいます。

いちおう、このブレーマーのオイルがメインなんですが、楢や栗など褐色系の経年変化を望む場合は焼け色の濃い桐油をつかうこともあります。これはsemi-acoの加賀さんに教えてもらった京都の山中油店さんで。

ナチュラルオイルを含む油性塗料はつまり油なので、時間と共に酸化しながら黄色く、または褐色に“焼けて”きます。例えばメープルは白い木肌が美しいので、黄変性の少ない塗料が好ましい。そんなときはウレタンオイルというのをつかったり、先日、シンクを落とし込んでつかうキッチンカウンターを制作した際はプレポリマーを初めて試してみました。プレポリマーっていうのは、学校給食の木製食器なんかにも使われている、耐水性に優れた含浸性の塗料です。

今回の椅子は、オイルをよく乾かしてから、仕上げに蜜蝋ワックスをすりこんでおしまい。製作の、最後のページです。








こちら、今夜の帰り道で出会った方。
昨年の台風以来、家の近くの沢の流れが変わって、コンクリの道の上を沢水の幾らかが流れているんですけど、その道の上の流れにどうやらせっせと産卵中であるらしい。車のライトを当てても、30センチまで近う寄っても、手ぶれ防止のためのセルフタイマーの赤く点滅する光も、全く無視。『わたしそれどころじゃないのよ』

僕は蝶も好きですが、蛾も好きです。どうしてこんなに飾り立てなくちゃいけないんだい?どうせ暗い夜に飛び回るのに。僕はどうもこの滑稽で過剰なきらびやかさが羨ましいらしい。

スッパダカになった人間て、なんて地味で飾り気のない姿だろう。毛さえろくに生えてやしない。『それに比べてわたしはどう?ヒマラヤの夜明けって呼んでもいいわよ』。おまけに三日月までかかってる。4つも。

どうも蛾さんたちは人間の願望の化身であるような気がするのです。







所感
ブログを最近更新していなかったので、
なにか投稿しようと思うものの、、、なかなか言葉が出てこない。
首とみぞおちの間あたりになにかつかえているものがあって。

先日からニュースでも大きく取り上げられている原発のことです。

大飯原発の再稼働、正直に言って、まじかよという想いです。

産業、医療、雇用などの面から、原発の即時撤廃が難しいことは僕でも想像はつくんですが、何故再稼働が必要かという十分な説明もなく、長期的な国としての姿勢も示さぬまま。なんとなくなし崩し的に『しょうがない』というような印象しか受けない。

福島は事故を起こしてしまったけれど、他は大丈夫という根拠はどこにあるんだろうか?福島原発だって絶対に大丈夫という太鼓判を押されて操業していたはずです。ところが自然がどのような振る舞いをするか、人間には完全に予測できない。大体、核廃棄物の処理方法さえ確立されていないのに、何十万年も放射線を出し続けるゴミを生み出しながら今日の明かりを灯すという考え方に、どうしても賛成できない。

そのゴミどうするの?
子供達の子供達の子供達にバトンみたいに渡して行くのは核廃棄物ではなく、安心して呼吸できる空気と、安心して魚を食える海と、安心して作物を食べられる大地でありたい。


僕はどちらかというと社会運動には積極的な方ではないです。
社会運動に興味を持ち始めると、どうしても敵と味方のイメージがつきまとってしまう。こちらが正で向こうが誤。川のこちら側は善良で、向こう岸は嘘つき。もっと白熱するとこちらが正義で、向こうが悪であるという構図になりかねない。

僕は自分が正しい人間だとは思えない。非常に欠点の多い、不完全な個体で、ましてや正しい判断が出来る人間だとは尚更思えない。知識もない、洞察は自分の出来る限りしか出来ない、どの方向へ向かえば世界は明るいのかなど、子供の作文程度のことしか言えない。

でも逆に言うと、子供の作文程度のことならば、主張がない訳ではない。

人生のなかで、僕は善悪で計りがたい場面に出くわす。道はこの先で2本に分かれており、その内の1本を選ばなければいけない。そのようなとき、僕はどちらが自然であるかと考えてみる。自分の心情に対して自然か?という事ではなく、自然界の摂理に沿うているか?という問いです。人間の価値観はみなそれぞれの基準や人生の上に成り立っている。自然の摂理というのは、ただひとつです。

自然という絶対基準から、原発はどうもあまりにかけ離れているように思う。

今年の8月に、これからの日本のエネルギー政策の方向を決定すると、ニュースやFBで見ました。とても大事な問題で、いまは大事なときなんだとひしひしと感じます。僕は脱原発の方向を希望します。


製作中



銀木犀に納品する椅子の製作をつづけています。
ここのところはひたすら部材の鉋がけ。

大鉋も小鉋も豆鉋もみんな出番です。

ひと削り、ひと削りするうちにやがてぴかっと木肌が光ってくる。

まだもう少しこの仕事が続きます。


身の回りのこと
 

多分5年前くらいに仕入れた杉材が残り少なくなってきて、お世話になっている製材所にお願いしていた新物が届きました。

4mで末口が48cmの丸太を半分に割ってから3寸で挽いています。丸太はこずえ側を末・すえ、根元側を元・もと、と呼びます。まだ水をたっぷりと含んだ状態。木口に割れ止めのボンドを塗って、こないだの日曜に屋外に積み直しました。1年くらいは屋外で良く風を通して乾かし、いつまでも外に置いておくとカビやらシミがつくので折を見て屋内に移動し、使える様になるのは3年後位からでしょうか。使うときは欲しい厚さや幅に挽き直してつかいます。

これだけ豊富にあるから軽く見られている杉だけど、希少材だとしたらさぞかしもてはやされるだろうと思います。軽く、真っ直ぐで、狂いにくく、赤身は耐久性に優れ、経年変化が美しい。世界的に見ても優秀な材、特に建築の柱材としては超一級だと思います。ただ、植え過ぎちゃったよね。過ぎたるは及ばざるが如し。






同じく先日の日曜は久しぶりに仕事を休んで草刈り。久しぶりで茂っていたのでほぼ1日かかってしまう。草を刈るとタケやんが積んだ石垣が見えてくる。近くの岩をダイナマイトで割ってから小割りにして積んだんやと、前に話してくれた。まったく、手つかずの山をこうして人が暮らすように変えてゆく努力の積み重ねというのはすさまじい。それがたった2世代前の話なのだ。

石垣をのぞくと、割るために開けたドリルの穴が残り、ひとつひとつの石が整合するように玄翁ではつった跡があり、総じて見るとそこには自然と人の拮抗した関係がある。僕はこの石垣を美しいと思う。







さて今朝は今年初めてのマダケを掘ってきた。孟宗竹より1ヶ月ほど遅い。自分の竹林なんてないので、近所の方の好意で採らせてもらっている、家から3分の谷の斜面。孟宗竹に比べてマダケは、アクが少ないけれど香りと旨味も少ない。と僕は思う。逆に言えば孟宗竹はアクがきっついけれど、上手にアクを抜くと至福の香りと旨味が楽しめる。ただ、アクを抜きすぎると結局同じで、味も香りも飛んでしまいます。
夏の雲
 

6月の雲。

なんとなく、白井晟一のデッサン“東北労働会館 透視図”の雲を思い出す。

『モクモクモク。俺は来たよ。』

さあ、もう逃げられない。

夏の到来をはっきりと告げる合図。

田辺は昨日、梅雨入りしたようです。







台東区の新築邸へ納める建具・調度類の制作が完了し、昨年に引き続いての銀木犀の椅子の製作を進めています。






部材ホゾの“男木(おぎ)”と呼ぶ差し込み側。






これはアームと後ろ足の接合部で、幅5mmの長穴4つに、ぴたりと合う男木ホゾを加工。仕口の呼び方としては2枚2段ホゾといいます。ホゾを分割するのは、接合精度を上げるためと接着面積を増やすためで、細くなるホゾの強度を保つため、ホゾは根元部分で繋がっています。ホゾを根元で一体化させる仕口を“元一(もといち)”と呼びますが、このホゾの場合は4枚のホゾが全て繋がっているのではなく、縦の2枚が繋がっているので、何て言えばいいんだろう。半モトイチくらい。

ホゾを分割するもうひとつの大きな理由は、木の乾燥による収縮でホゾが緩むのを防ぐため。4枚割りにしておくと、木が収縮した時に男木が女木(めき)を挟み込むイメージです。こうした作為が本当にこちらの思い描いた様に作用してくれるかは、年月を経てみなければわかりませんが、20年後にビクともしていない事を祈るためには、出来る事はしておかなければならない。
ここのホゾの精度は製作の山場のひとつで、“ピッタリ”になるまで機械を調整して工作します。







仮り組みで精度を確かめる。

仕口(ホゾ接合部)の加工が終わると、次は部材の成形です。

no title
 

5月21日 07時28分


和歌山県田辺市長野から見えた金環日食はこんな感じでした。

いまは、なぜこういう現象が起こるのか分かって、何月何日の何時何分頃に、ということまで分かっているけれど、かつての日々、なぜこういう事が起こるのか分からないまま、ある日ある朝突然太陽が翳り出したとしたら、僕はこの現象をどう受け止めただろう。

計り知れない宇宙のひろがりのなか、僕が泣こうが喚こうが、懇願しようが無視しようが、まったく影響の及ばない秩序のことを、僕はかみさまと呼んでいます。

ところがその秩序をもたらしたものはなにかという問いに、僕は言葉を詰まらせてしまう。

わからないことはわからない。まったくわからない。
そしてそれで良い。と今は思う。

わからない、というか、計り知れないと言った方が正確かもしれない。
圧倒的に自分を超越したものや力に、人間語の名前や性格を持たせる必要はないと思うのです。ネイティヴ・アメリカンは、自分のいのちを含めた森羅万象に作用し、かつ成り立たせているもののことをgreat spirit と呼ぶ。僕はそれを“偉大な意思”というふうに解釈しています。彼らはその力をgreat spiritと呼び、畏怖し、共に生きるけれど、それ以上に敢えて姿かたちを与えたり、人格化したりはしない。

降り注ぐ光のあたたかさのなかに、風の息吹のなかに、水の冷たさの中に、あなたはいらっしゃる。あなたが誰なのか全く見当もつかないけれど、そもそも誰という問いが当てはまるとは思えないけれど、僕が言葉にせずに祈るとき、その意識の先は彼方に飛び去って帰ってくることがありません。